「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ56:7)第2回
M4A•Episode hjem
Manage episode 308172801 series 2095300
Indhold leveret af ma-chan. Alt podcastindhold inklusive episoder, grafik og podcastbeskrivelser uploades og leveres direkte af ma-chan eller deres podcastplatformspartner. Hvis du mener, at nogen bruger dit ophavsretligt beskyttede værk uden din tilladelse, kan du følge processen beskrevet her https://da.player.fm/legal.
今回は、旧約聖書のイザヤ書から15回目のメッセージです。前回と同じテーマからの2回目のメッセージです。イザヤは新しい祈りの家がユダヤ人や異邦人も含めて作られていくことを預言しています。それではユダヤ人の現状はどのようなものだったのでしょうか。56章9節から57章全体にかけて、堕落した指導者たちの様子や堕落した民の姿が表現されています。本当に悲しくなる内容です。しかし現状を正しく認識して、彼らも変えられることや、私たち異邦人も祈りの家に招かれていることを感謝したいと思っています。もう一度56章4節から12節までを読んでみてください。
7節でこのように表現されています。「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」続いて8節には、「 - イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ。– わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」すでに集められた者たちとは捕囚から解放されたユダヤ人たちのことで、さらに集めるとは、異邦人の信仰者たちのことです。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ、とありますが、ユダヤ人も異邦人も1つとされる祈りの家がイエスによって誕生することになります。
9-12節には、当時のイスラエルの指導者たちの姿が表現されています。見張り人はみな盲目である。眠りをむさぼっている。悟ることを知らない牧者である。自分かってで、自分の利益を追求しているなど、危機感のないリーダーの姿が表現されています。そのような指導者の故に国を失って行く、それも当然なことなのかもしれません。57章では、指導者も民も偶像礼拝に陥り、堕落した姿が表現されています。しかし、57章14節で、イザヤは、「わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」と語りかけています。
続いて57章15節を読んでみましょう。いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「私は高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」神から離れ、偶像礼拝に陥ったイスラエルの民を、神は愛し続けておられます。神の子イエスが十字架につくほどに、心砕かれ、へりくだられて、人類に救いの道を備えてくださったのです。18節には、「彼をいやそう。・・慰めを報いよう。」と語りかけています。
救い主に出会い、新しくされた信仰者の群れが起こされて参ります。彼らは、56章の6節にあるように、主に仕える者、主の名を愛する者、主の僕となる者達です。また安息日を楽しみ、新しい契約を固く守る者たちです。このような信仰者がイスラエルの民だけではなく異邦人からも起こされて参ります。そのことを新約聖書のエペソの手紙から学んでみましょう。エペソ2章8節には、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、上からの賜物です。」とあります。11と12節には、「ですから、思い出してください。あなた方は、以前は肉において異邦人でした。…そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」と書かれています。
そのような異邦人とユダヤ人を、キリストは和解させてくださったのです。そして、18節にあるように、私たちは、このキリストによって、1つの御霊において、父のみもとに近づくことができるようにされたのです。異邦人も聖徒たちと同じ国民となり神の家族となるのです。それでは、20節を読んでみます。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と書かれています。教会を神殿に例える時に、キリストが礎石、使徒と預言者は土台、そして私たち信仰者は建物の石であると表現しています。ペテロは教会を霊の家とよんでいます。(参照第一ペテロ2:5。)21節と22節では、教会を聖なる宮と、また神の御住まいと表現しています。
教会はキリストの体です。いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ2:23)教会は、祈りの家であり、聖なる宮であり、また神の御住まいです。
神のご計画は本当に大きいです。神から離れ偶像礼拝に陥って行ったイスラエルの民も回復し、イエスによって新しくされて参ります。私たち異邦人もキリストに出会い、罪の許しをいただいて、新しい礼拝に招かれて参ります。ユダヤ人も異邦人も神の恵みによって救われて行くのです。そして1つの体として、新しい礼拝が始まって行くのです。そのことをイザヤは預言しています。そして、御霊の働きによって教会が世界中に起こされているのです。
私たちの教会はインターナショナルな教会です。言語や民族を超えて神の宮、祈りの家として存在する教会です。イエスの臨在を歓迎し、国際的な教会として礼拝を共に捧げてまいりましょう。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」そのみ言葉を体験できる信仰者の群れでありたいと願っています。
…
continue reading
7節でこのように表現されています。「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」続いて8節には、「 - イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ。– わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」すでに集められた者たちとは捕囚から解放されたユダヤ人たちのことで、さらに集めるとは、異邦人の信仰者たちのことです。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ、とありますが、ユダヤ人も異邦人も1つとされる祈りの家がイエスによって誕生することになります。
9-12節には、当時のイスラエルの指導者たちの姿が表現されています。見張り人はみな盲目である。眠りをむさぼっている。悟ることを知らない牧者である。自分かってで、自分の利益を追求しているなど、危機感のないリーダーの姿が表現されています。そのような指導者の故に国を失って行く、それも当然なことなのかもしれません。57章では、指導者も民も偶像礼拝に陥り、堕落した姿が表現されています。しかし、57章14節で、イザヤは、「わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」と語りかけています。
続いて57章15節を読んでみましょう。いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「私は高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」神から離れ、偶像礼拝に陥ったイスラエルの民を、神は愛し続けておられます。神の子イエスが十字架につくほどに、心砕かれ、へりくだられて、人類に救いの道を備えてくださったのです。18節には、「彼をいやそう。・・慰めを報いよう。」と語りかけています。
救い主に出会い、新しくされた信仰者の群れが起こされて参ります。彼らは、56章の6節にあるように、主に仕える者、主の名を愛する者、主の僕となる者達です。また安息日を楽しみ、新しい契約を固く守る者たちです。このような信仰者がイスラエルの民だけではなく異邦人からも起こされて参ります。そのことを新約聖書のエペソの手紙から学んでみましょう。エペソ2章8節には、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、上からの賜物です。」とあります。11と12節には、「ですから、思い出してください。あなた方は、以前は肉において異邦人でした。…そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」と書かれています。
そのような異邦人とユダヤ人を、キリストは和解させてくださったのです。そして、18節にあるように、私たちは、このキリストによって、1つの御霊において、父のみもとに近づくことができるようにされたのです。異邦人も聖徒たちと同じ国民となり神の家族となるのです。それでは、20節を読んでみます。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と書かれています。教会を神殿に例える時に、キリストが礎石、使徒と預言者は土台、そして私たち信仰者は建物の石であると表現しています。ペテロは教会を霊の家とよんでいます。(参照第一ペテロ2:5。)21節と22節では、教会を聖なる宮と、また神の御住まいと表現しています。
教会はキリストの体です。いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ2:23)教会は、祈りの家であり、聖なる宮であり、また神の御住まいです。
神のご計画は本当に大きいです。神から離れ偶像礼拝に陥って行ったイスラエルの民も回復し、イエスによって新しくされて参ります。私たち異邦人もキリストに出会い、罪の許しをいただいて、新しい礼拝に招かれて参ります。ユダヤ人も異邦人も神の恵みによって救われて行くのです。そして1つの体として、新しい礼拝が始まって行くのです。そのことをイザヤは預言しています。そして、御霊の働きによって教会が世界中に起こされているのです。
私たちの教会はインターナショナルな教会です。言語や民族を超えて神の宮、祈りの家として存在する教会です。イエスの臨在を歓迎し、国際的な教会として礼拝を共に捧げてまいりましょう。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」そのみ言葉を体験できる信仰者の群れでありたいと願っています。
このブラウザでは再生できません。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
99 episoder